映画「殺人の追憶」(2004)
「殺人の追憶」についてというよりも、「映画館で観ることの意義」について考えたことを書いていく。
予告編 を下記より見ることが出来ます。
「殺人の追憶」は公開当時に映画館で観た作品で、実際に韓国であった連続殺人事件を題材に作られている。公開から数年後、WOWOWで放送された時、もう一度観たいと思い録画して観た。ところがあるシーンを観た時、映画館で観た時には見えたものが、見えなかったのだ。
あるシーンとは、女性が犯人に襲われる直前のシーンで、女性に狙いを定めた犯人の顔が映っていた。映画館で観た時には確かに見えた。作中で最も恐怖を感じたシーンだったため、よく覚えている。ところが何度見直しても見えない。このシーンのこの辺りに映ると分かっているのに。
見えない理由を考えてみたのだが、画面の面積に対する犯人の顔の面積の割合ではないかと思う。遠くから田園を一面に映し、女性が小さく映っており、揺れる稲穂に犯人の顔がスーっと浮かび上がり、スーっと消える。またしばらくして、少しずれた位置からスーっと浮かび上がり、スーっと消える。女性を追うように少しずつ移動している。
確かに犯人の顔は、かなり小さかった。映画館で観た時もその存在に直ぐには気付かず、「あれ?今何か映った気がしたけど、錯覚か?」と思った程だ。映画館の大スクリーンなら気付くレベルでも、TV画面のサイズでは確認が出来ないということなのだろう。
このシーンは、犯人の顔の存在が重要で、それがなければ恐怖など感じなかったと思う。その後の犯人の突如登場でビックリはしたとは思うが、それは「驚き」であって、「恐怖」ではない。前出の通り、作中で最も恐怖を感じたシーンなのだ。犯人の顔の存在が、錯覚ではないと気付いた瞬間の恐怖は、半端ではなかった。
この作品に対する私の評価は、このシーンの演出が大きく左右している。
映画が好きで、レンタル店と映画館で働いた経験があるが、正直なところ「映画館で観なくても、レンタルの方が本数観られるしいいんじゃない?確かに迫力は違うけど、画面・音響・空間のサイズが違うだけで、作品の評価にサイズは関係ないでしょう?」と思っていた。
しかし「殺人の追憶」を映画館で観たときとの違いに気付いてからは、考えが少し変わった。映画は映画館で観ることを前提に作られており、大スクリーンのサイズに合わせて画の構成が考えられているのだ。TV画面で観たのでは、作品の本当の評価は出来ないのだと。
とは言え・・・。
観たい映画を全て映画館で観るなんてことは、評論家でもない限り無理だ。そして全ての映画が映画館のサイズに合わせて、画の構成が考えられているとも思えない・・・。監督や撮影期間など予算も関係すると思うからだ。
私は運よく映画館で観るべき映画「殺人の追憶」を映画館で観て、その意義にたまたま気付くことができた。全て偶然だ。
ネットやディスクで観ることに意義はないのか?
映画館で観ることの意義は分かった。ではネットやディスク(DVD・Blu-rayなど)で観ることには意義がないのだろうか?そんなことはない。
映画館で観るのとは違い、繰り返し何度も観ることが出来る。これは1度見ただけでは理解できなかったこと、気付かなかったことが繰り返し観ることで理解・気付くことができる。これはよくあることだ。それにより作品を深く理解することが出来るのだ。
そして何より、時代の違う古い作品を観ることが出来る。この意義(価値)は大きい。今でも「ルパン三世 カリオストロの城」(1979)が観られるのは、ネットとディスクのおかげなのだ。
映画館で観るにしろ、ネットで観るにしろ・・・。
何れにしろ、これだけ量産・消費される映画。何を観るかを選ぶのも大変な時代だ。このブログが、観る作品を選ぶ際の一助となれれば嬉しい。そうなれるよう心がけて書いていく。
関連記事