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「シャーロック」を通して・・・。 #1 普通とは?

 ここではドラマ「シャーロック」を観て、思ったこと・考えたこと・連想したことなどについて書いていこうと思う。

 

「普通」とは?

 作中「普通」という言葉がよく出てくる。シャーロックの非常識な行動や言動に対して使われている場合が多い。では「普通」とは何なのか?

 「普通」を辞書で調べると「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。」とある。

 私達が会話をするとき、お互いに使う「言葉」の「定義」が同じであることが前提となる。そうでなければ話がかみ合わない。シャーロックの「普通」の定義と、ジョンの「普通」の定義には違いがある。だから「普通は~しない(する)。」というセリフが出てくるのだ。この「普通」という言葉は、普段私達もよく使っている言葉だと思う。しかし、その「定義」を意識して使っているだろうか?

 

 「村上龍文学的エッセイ集 」という本がある。この本には村上龍1996~2005年に書いた約170のエッセイが収録されている。この中に面白いことが書いてあるので紹介する。

 

 例えば「普通の女子高生」と言うとき、私達はどういう女子高生をイメージしているだろうか?勉強もクラブ活動も活発にやって、たまには親に反発したりしながら、恋愛の予感に胸をときめかせ、大学のキャンパスや将来の結婚や仕事のことを考えている、そういうのが「普通の女子高生」だろうか?

 「普通のサラリーマン」はどうだろう?郊外の一戸建てに住んで都心のオフィスに電車で通って子供が2人いて休日には家族で遊園地やピクニックに行き会社の帰りには焼き鳥で一杯飲んで上司や部下に気を使って、それでも自分は中流だと考えている、そんな「普通のサラリーマン」が今どこにいるのだろうか?

 そういった「普通」の概念は、高度経済成長の時に形成されて、驚くべきことに全く変化していない。普通という概念の崩壊に際して、この国のメディアは「多様化」という言葉で対処しているようだ。多様化というのは、あるモデルとなる「原型」があってそこから派生するもの、という暗黙のニュアンスがある。完全に別のものに変わってしまっている場合には、多様化という言葉は本当は使えない。それでもこの国のメディアは、自分が理解できないものに向かい合うと、「普通」と「多様化」で対処しようとする。

~中略~

 前述したように、普通という概念が崩壊しているにも関わらず、メディアは頻繁にその言葉を使っている。それは単に便利だからだ。

 普通というカテゴリーが安心できるものだからだと思う。普通という言葉で括ることが出来る人々がいる、という一種の求心力のために、メディアの側も、メディアの情報を受け取る側も安心できる。

 だが、「普通」というこれまでの概念はもうどこにもない。それは多様化したわけではなく、近代化の終焉と共に消滅したのだ。だから「普通」というカテゴリーの中で、「みんなと同じように」生きていける人は誰もいない。1人1人が、その人の属性、資源を利用して生きていかなくてはならない。そして、現代においては、そのことが「普通」なのだ。

~中略~

 楽だからというアンフェアな理由で、すでに消滅している概念を平気で使うメディアが、現実を生きている人のことを正確に伝えられるはずがない。

 

 これは1999年に書かれたエッセイだが、今でも通用する内容ではないだろうか?「普通」という言葉が頻繁に使われていても、その「定義」は使う人や時と場合によって異なる。都合のいい解釈で使われ、都合のいい解釈で受け取られている、私にはそう思える。

 

 

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